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韓非(かん ぴ)、韓非子韓前280~前233統率:C 武力:C 政治:B 知力:A 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------思想家。法家に属する。李斯とともに荀子に学ぶ。春秋・戦国時代の思想・社会の集大成と分析として『韓非子』を著す。吃音がひどく、演説よりも文章で大勢を成した。韓の使者として秦に赴き、秦の王に登用を考えさせるほどの才を持っていたが、自分の地位が脅かされると恐れた李斯の讒言によって投獄される。 荊軻(けい か)衛????~前227統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------燕の太子の依頼で秦の始皇帝を暗殺しようとした。領地割譲のための地図に包んでいた毒を焼きいれた匕首で襲い掛かるも、あと一歩で防がれて暗殺は失敗しその場で殺された。酒を飲むと傍に人がいないかのように騒いだため「傍若無人」の語源となった人物。 公孫竜(こうそん りゅう)趙????~????(前3世紀)統率:D 武力:D 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------思想家。論理学を展開する名家に属する。白は“色”、馬は“動物”であるので、この2つが結びついた白馬とは“馬”の概念と異なる、と言った「白馬非馬説」を展開するが、他の諸子百家には、詭弁であると非難された。 荀子(じゅん し)、荀況(じゅん きょう)、字は卿斉・楚(生まれは趙)前313~前238統率:B 武力:B 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------思想家。儒家に属する。人間は生まれながらにして悪であり、後天的な努力で善へ向かうという性悪説を主張した。生涯学習を薦め、治政にあたって実力主義や成果主義の有効性を説く。「礼」を重視した。 荘子(そうし)、荘周、字は子休宋前369~前286統率:C 武力:C 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------思想家。道家に属する。無為自然を基本とし、政治色を排して世間を離れた無為の世界を楽しんだ。代表的な説話として「胡蝶の夢」がある。 孟子(もう し)、孟軻(もう か)、字は子輿魏・斉・宋・魯前372~前289統率:C 武力:D 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------思想家。儒家に属する。人間は生まれながらにして善であるという性善説を主張する。また、孔子の「仁」を発展させ、「仁義」を説いた。また、「王道」と「覇道」に分け、王道政治を目指した。 李牧(り ぼく)趙????~前229統率:A 武力:B 政治:C 知力:A 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------戦国時代の趙の将。秦・韓・魏の度重なる侵攻を何度も撃退し、『守戦の名将』と呼ばれた。秦から賄賂を受けた郭開の讒言で更迭された。しかし、その命令を拒否したため捕らえられて斬られ、その3ヶ月後に趙も滅亡した。
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石田清二さんの「昨今の教育問題について」に寄せて 大坂 洋 石田さんの文章を読み、率直に危惧を感じました。石田さん自身にも詳細な批判をメールで送りましたが、理解していただいていないように感じております。 石田さんは行政的な手段だけでは、教育問題が解決できないことを強調します。それはその通りです。しかし、教育はなんらかの行政的側面をかならず持ちます。たとえば、二人教師がいれば、どちらの教師がどの科目を分担するかという問題が生じます。教師が一人であっても、どの科目を何時間づつ時間をかけるかといったことは教育の行政的側面にあたります。その意味で教員の自主性が尊重される教育とは、行政的側面がない教育ではなく、個々の教員に行政がゆだねられた状態であろうと思います。鍵が二つないと開かないドアがあるときに、「この鍵だけではドアが開かない」といって、持っている鍵を捨てるとすれば、それは明らかにおろかなことでしょう。石田さんの主張は論理的にはこのことを同類のことを主張していると言わざるをえません。 現在の教育は指導要領にみられるとおり、多くの行政的側面が官僚的に決定されています。その状況では教員は良心的にあろうとすれば、その行政的にはめられた枠のなかで、良心的教育を行うという課題を持つことになります。これも教員が直面しなくてはならない教育の行政的側面です。 教育者は教育の行政的側面を忘れてはなりません。問題は行政的側面を悪の側面として切り捨てるのではなく、よきものを行政的側面に反映させるよう努力すべきなのです。 また、この部分ははっきりいって怒りすら感じているのですが、石田さんの教育行政に携わる人間への蔑視を文章のなかに強く感じます。石田さんはいいます。「従って公務員という立場が作り上げる資質は「言い訳のために働き、保身に走る」ということです」私も含めて、公教育に携わる人間は国家によって、身分を保証され、流れに身をゆだねれば石田さんのいう傾向を持つ人間になってしまうのは本当のことでしょう。しかし、だからこそ、まともな教員であろうとすれば、そうならない努力を要求されるのです。その努力を忘れないでいれることこそ、教師が自由であるということだと思います。 石田さんはご自分のいっている「「悪に進む自由を持っている人間が自らの意志で善に進む」世の中にこれほど尊いことはなく、そこに我々は努力すべきなのです。」という意味をわかっておられるのでしょうか。 また、昨今のいじめ問題についても、いじめの発生の原因は別として、世間が怒っているのは学校の対応だと思います。これは石田さんのいう性善説とか性悪説といった問題ではなく、端的に官僚機構としての学校の機能不全とみなすべきです。行政的側面を問わないことは、いじめの教育側の当事者にとっては都合のいい免罪符です。 私にとっては昨日の時点でこの問題は決して他人ごとではなくなりました。というのは私の属する富山大学経済学部で過去とまったく同一の編入学試験の試験問題が出題されるという決して許されない事態が発生したからです。私の状況においては石田さんの発言はむしろ快いものです。今回の事態は出題者が常識をこえる手抜きをしたという意味で、おそらくチェック機能の問題で発生したものではありません。システムでは、チェックできなかったという言い訳はできないわけではありません。しかし、これはあきらかに行政的ミスです。私はわれわれが入試が個々の受験生の人生を左右するものであり、彼らに対して責任をとるという覚悟のなさが、行政的側面にあらわれたのだと思います。
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目次 1.価値観変革のための指導者 2.地獄観について 3.天国も地獄もあなた自身の心の中にある 4.神は、地獄霊救出のために永遠の時間と機会を与えられている 5.鮭のように自分の生れ故郷の川(神の国)を忘れず帰ってきて欲しい 6.地獄霊は病人、地獄界は神が用意された病院である 7.地上での光の天使は医師の役割 8.人はこの世で例題に学び、答えのない応用問題を解かねばならぬ 9.天上界にもリーダーは居る。ただしそれは「村長(むらおさ)」というかたちで 10.健康な人間には真の健康の有難さが分らない 11.悠々たる大河の大らかさに学べ (1968年7月、GLA主宰、高橋信次師が、始めて雪道を開いた時に現われた、初期の師の守護霊フワン・シン・フワイ・シンフォーといわれる方の本名は、天台智顗大師であります。) 11.悠々たる大河の大らかさに学べ 智顗 ―― 私がいまあなたに助言したいこと、一つありますが、それは窮屈な自分を中心にした価値世界ですね、価値の階梯、そのようなものを捨てて、もっと大らかな、すべてを包み込むような大らかな気持、大らかな愛、これを持ってほしいのですね。あなたは自分で作り上げた、過去の自分がっくり上げたいろんな価値概念、価値意識、これで自分自身を、がんじがらめにして、自分の世界を徒らに小さくしています。あなたに私が言いたいこと、あなたに私がアドバイスしたいこと、それは一つであります。それは大らかに生きてほしい、大らかな気持を持ってほしい、そういうことですね。人間が大らかな気持になった時、偉いとか、偉くないとか、そういうことも無くなってくるのですね。優れている、秀れていないというようなことも、余り関係はなくなってくるのですね。大らかな気持、それを持ってほしいと思います。 富山 大らかな心を持てば、大らかな環境が生れてくるわけですね……。 智顗 そうです。大らかな気持、あなたはいま苦しんでいます。さまざまなことに苦しんでいます。それは自分が作り出した価値観に、現にある自分の姿が適応しない、自分がつくった価値の体系の中に位置づけると、自分は好ましくない状態にある。だからあなたは苦しむわけです。自分で自分を苦しめているんですね。大らかな気持を持ってほしいんです。たとえあなたが自分が考え出した価値の階梯において上位に居られなくても、しかしそういうことに関りなく、神の愛は流れているのです。 神の愛は、永遠に流れているのです。あなたの意識も、あなたの生命も、永遠に流れているのです。あなたは、永遠の流れ、永遠の川の流れの中の、ある地点をいま通過しているのです。 川の流れは、太くなることもあれば、細くなることもあります。遅い時も、速い時もあるのです。或は大雨が降って濁ることもあるのです。流木が流れることもあります。川は様々な形をして流れて行きます。過去から未来へ、その流れは止まることを知りません。或は細くなっているかも知れません。或は急流になっているか、或はせせらぎになっているか分らないけれども、あなたという個人は、あなたという魂は、永遠の生命の中を、神の愛の中を、流れている一本の川だという意識を忘れないでほしいのです。 川として、滔滔と流れる川としての、ゆったりとした、のびやかな、大らかな気持、これを忘れないでほしいのです。いま、あなたはある地点を通過し、その時に川の形が望ましくない形であるかも知れませんが、そういう雄大な心を持ってほしいのです。いまあなたは、私の川は、こんな浅瀬ではないと、もっと深い川のはずだと、おかしい、おかしいと言うかも知れませんが、やがてそのような場合も出てくるわけです。なんでこんなに流れが遅いんだ、おかしい、とあなたは思うかも知れない。しかし急流の場面もあるわけですね。そのように自分の人生を、一本の川の流れの中のある地点をいま流れているんだというそういう認識を持ってほしいのです。そういう大きな考えを持ってほしいのです。そうしたならば、あなたが持っている価値尺度ですね、今の例えば、川は大きく深く豊かに流れなければならないと、あなたはそういう価値尺度を持っているとします。ところが、あなたは、小川のようなひじょうに小さなところですね、窮屈なところを流れているわけです。濁りもあるんですね。川は清らかに澄んで、巾も広く、深く豊かに流れなければいけないという、あなたの価値尺度があります。しかし、自分の川をいま見るならば、自分の川の水がいま濁っているわけですね。これはいけないと、あなたは思うわけですね。あっ、底も浅い、巾も狭い、曲りくねっている。これはいけない、真直ぐと堂々と流れなければいけないと、その思いそのものは悪くはないのですね。しかし、そういう場面もあるということです。それはそれとして見なければならないということですね。 川は濁ることもあります。しかし一週間もすれば澄んでいくでしょう。いまあなたの川は濁っていますが、濁っているということにおいて自分の、自分の流れを否定してはいけません。濁っているから、いま流れを止めてしまおうと、澄むまで止めてしまおうと、そのようなふうに考えてはいけないのです。流れて行きなさい。流れているうちにまた澄んでくるでしょう。―― かくあるべきだという姿、それは大事なのですが、それだけに縛られて、現在の自分のあるべき姿を、いたずらに貶(おとし)めないということ、それは大切です。 富山 ―― たとえば、常に最高のものを求めるというのではなく、うまくいかない時もあるという割り切りというか、それも必要なわけですね……。 智顗 ―― いや、心が広く狭く流れ、速く流れ遅く流れ、濁り、或は澄み、それで川として堂々たる川になるわけですね、それが川であるわけです。最初から最後まで一貫して同じように流れるものであれば、それは、人工的水路ですね、用水です。用水は確かに見た眼には、いいかも知れませんし、役にも立ちますね、田畑に水を引くのに役に立ちます。いつも同じような流れでね、底も同じ、巾も同じ、流れも速さも同じようなもの、水量も似たようなもの、これはひじょうに有難いかも知れない。しかし、用水路というのは何か、何かが欠けているわけですね。何が欠けているのでしょう。天然の川と、用水、とでは何かが違うわけですね。その違いを分ってほしいのです。望ましいのは用水路のように、真直ぐにですね、真直ぐにいつも役に立つような形で、規則正しく水が流れることは望ましいかも知れませんが、しかしだからといって、真直ぐ流れていないからといって、川は、川の値打が無くなるわけではないのです。そういうことですね、わかってほしいんです。 ―― 大らかな気持、あなたにアドバイスは、大らかな気持、持ってほしいということです。それから、永遠の視点、過去から未来に流れる永遠の視点ですね、これを持ってほしいんですね。現在、只今というのは余り詰めて考えないということですね、余り自分自身をいじめないということです。永遠の流れの中にあなたはあるのだということを、認識してほしいということですね。要するに雄大なものの考えの中に、自分の現在の悩みの小ささ、つまらなさというものを感じとってほしいのです。 富山 ―― 現在の自分だけにとらわれているということですね。 智顗 そうです。 富山 大体解りました。 智顗 私の用は済みましたか。ほかに何かありましょうか。 富山 ―― いま一つお伺いしたいのですが、こういうふうな、例えばいま私は仏教の勉強をしているのですが、こういうふうな過去の思想とかを勉強していくということは、やはり大切なことでしょうか。 智顗 大切なことではありますが、それによって自分を狭くしないようにするという配慮だけはしておいてほしいと思います。 富山 要するにこういうあらわれ方をしているというぐらいにみればいいわけですね。 智顗 そうです。縛られないように、窮屈にならないように。ともすれば知識は人間を狭く窮屈にしてしまいます。知識を得るということは大切ですが、それで自分を狭める方向に行かないように、窮屈にならないように、そういうことだけ留意して下さい。 富山 ―― はい、分りました。 智顗 一般的な話は終りました。何か他にありますでしょうか。個別な話は他の人がよければ他の人に替ってもよろしい。 富山 それではいま一つお伺いしたいのですが、あなた様は、私の魂の過去から未来にわたっての想念のテープというものを読みとることができましょうか。 智顗 読みとれます。 富山 たとえば地獄界に居る人達はそれが読みとれるのでしょうか。 智顗 現在は分っても過去と未来については読みとれないことが多いです。光の天使達は、あなたの想念のテープを簡単に読みとることができます。 富山 ―― はい、わかりました。 智顗 他に何かありますか。 富山 たいへん有難いお訓えを長時間お聡かせ頂いてありがとうございました。 智顗 よろしいですか。それでは、私の役目はこれで終りということで、帰ります。 富山 シンフォー様ですね。 智顗 そうです。フワン・シン・フワイ・シンフォーです。 富山 ありがとうございました。
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07年02月01日 秋山氏出演のNIKEのCMがYoutubeにアップされる。 「ヌルヌル」秋山出演 ナイキCMに大ブーイング2007年02月01日(J-CAST・cache) 07年02月03日 2007年2月3日(土) 11時頃、まとめ記事削除などの荒らしが発生するも、 すぐに復旧される。 07年02月07日 mixiのコミュニティ「秋山 成勲 (チーム・クラウド)」-秋山選手の知人などで構成されるコミュ-にて、 山田武士トレーナーは秋山選手がクリームを塗っている現場にいたとする 関係者らしき人物の書き込みが表にでる。 【 FEG/K1 HERO'S 】 秋山セコンド「山田も門馬もクリーム塗っているのをみていた」 Japan National Front (キャッシュ) 【参 照】秋山セコンドの証言&秋山からのメッセージ(mixiより) 07年02月08日 神ID出現 【すっごい滑るよ!】 秋山成勲不正総合 76ヌル目http //ex21.2ch.net/test/read.cgi/k1/1170772203/691- 691 名前: 実況厳禁@名無しの格闘家 投稿日: 2007/02/08(木) 23 52 13 ID OILU5QJP 前田さんそんなこと言っちゃリングス再結成しても誰も見に行かないじゃん 07年02月15日 日清食品が3月のHEROSのスポンサー撤退を正式決定したとの報告あり。 【参照】日清食品の対応 windows100%3月号(123P目・3分の1枠)にぬるぬる騒動の記事が掲載される。 【参照】最新ニュース 07年02月17日 livedoor・infoseek・exciteのトップニュースにJ-CASTのぬるぬる騒動記事が掲載される。 「ヌルヌル」秋山騒動収束せず 「追及」サイト登場、スポンサー撤退(J-CAST・cache)【同記事】livedoor(cache)infoseek(cache)|excite(cache) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (ポスターの一部) 秋山選手が米子で開催の「CAGE FORCE」にセコンドとして参加。ポスターではゲスト解説者として掲載されていた。 「めちゃイケ」にて岡村が秋山選手のパロディを執行 【参 照】http //www.youtube.com/watch?v=tbXxxN-BF6c(FLVファイル) まとめサイトのアクセスが一日で10万アクセス突破 07年02月19日 週刊ヤングマガジン2007年12号(03/05)の「食べれません」という4コマ漫画の扉絵が 桜庭vs秋山と思われるものだったらしい。グローブに「エド~」などと入っていた。 07年02月21日 資生堂が秋山選手出演のCMを放送しないことが、電凸組により報告される。 続いて、J-CASTにその件の記事がでる。 ヌルヌル秋山余波 資生堂もCM起用断念 2007/2/21(J-CAST・cache) 【参 照】資生堂の対応|UNO BPO(放送倫理機構)の苦情・意見一月分の集計結果に問題ありと指摘される。 【参 照】BPO(放送倫理機構)の対応 07年02月23日 すっごい滑るよTシャツショップが出来る。 値段は1995円で、報酬ゼロの設定。 【参 照】オリジナルTシャツ 07年02月26日 ISAMIに電話で問い合せた者からの報告によって、 ISAMIへの不信感が発生する。 【参 照】ISAMIの対応 PRIDEの川尻達也選手のブログが閉鎖。 秋山問題の余波で心無いコメントが続き、それを目にするファンが不快な思いをし、 また、ファンとの意見交換が出来ない状態になったための結果らしい。 【参 照】 川尻選手がブログ閉鎖(K-1中心:秋山不正問題) 07年02月28日 AllAboutでヌルヌル騒動記事の続報(5)~(8)が書かれる。 内容は、ルールの性善説・性悪説、レフェリー業の本質など。 秋山事件なぜストップできなかったか?(5)~(8)(ガイド:井田 英登)
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目次 松村劭『オペレーショナル・インテリジェンス──意思決定のための作戦情報理論』目次 関連ページ 関連リンク 松村劭『オペレーショナル・インテリジェンス──意思決定のための作戦情報理論』 オペレーショナル・インテリジェンス―意思決定のための作戦情報理論 目次 まえがき 第一章 情報活動は「知恵の戦い」である1…知識の玉石を区分する知識と情報の違い 情報資料は処理されてない知識 軍事用語と経営用語 2…情報化時代の問題点情報・情報資料をどう扱うか インターネットは「状況伝達」を目的にしている 欲しい情報は簡単には入手できない 情報資料の穴を見抜け 情報は操作される 情報伝達を複線にする 3…情報活動はサイクル活動である【事例1】父親が購入する車の情報を集める 何を判断して、何を決断するか 4…情報活動の要則周到な準備 【事例2】一九二一年から対日戦争の準備をしていた米軍情報部 タイムリーでなければ 【事例3】ロンメルが偽戦車を見抜けた理由 継続的な定点観測 【事例4】電報傍受でわかった中ソ緊張 【事例5】缶詰と医薬品会社の株価で作戦開始を推定 冷めた眼力 第二章 どんな情報が欲しいか、を決める──情報の要求1…何を要求するか「敵」「味方」「戦場」 得意技を基準に 2…情報収集計画の作成兆候表を作成する 収集任務を配分する 収集命令 【事例6】情報収集の穴が空いたミッドウェイ海戦 【事例7】的を絞って北朝鮮軍の実行能力を判定 第三章 五感を駆使し集める──情報資料の収集1…資料源を開拓するさまざまな資料源 記録・伝達できない知識 【事例8】インディアン兵士が気づいた「敵」の臭 【事例9】数値化不能の戦場もある 【事例10】ロンメルの戦局眼 2…資料を収集する情報収集を他国に依存しない 状況の四分の三は霧の中 収集の三つの手段・方法 【事例11】ドイツ勝利を信じ切っていた大本営 公開情報からスタート 捜索と偵察、監視と追跡 【事例12】逃げた猿の捜し方 【事例13】定点観測でソ連侵攻を察知 【事例14】初代万景峰号を視察 識別と評定 暗号解読 【事例15】引き出せなかったマルコス闇資金 類推する情報資料──影と波紋 収集活動の評価 【事例16】大量の棺桶製造でわかったヒトラーのソ連侵攻 【事例17】戦史研究でわかったイラン・イラク戦争の長期化 3…報告・通報・警報の注意点 第四章 信頼性・正確性の評価をする──情報資料の処理1…認識はすべて経験をもって始まる頭脳という工場 情報資料処理の手順 2…資料処理は二段階ある一次処理──受付と選別 二次処理──信頼性と正確性の格付け 3…情報を作成する集成して「一品料理」を作る 情報見積を作る 第五章 「伝達の壁」を超える──情報の使用1…「伝達の壁」情報は情報を使う能力のある人に伝える 民主主義と情報処理の能力 タイミング良く 【事例18】上司交替で情報伝達を失敗 「まさか!」の坂は本当の坂 【事例19】フォークランド戦争は予知できていた 【事例20】ガダルカナルへの米軍上陸を軽んじた大本営 【事例21】情報参謀の報告を無視して失敗した米軍 2…作戦会議作戦と情報の吻合 作戦指導の基本姿勢 3…情報をブリーフィングする結論と根拠を示す 【事例22】ブリーフィングがうまくいったよど号ハイジャック対策本部 ブリーフィングはキャッチボール 4…その他の情報使用会議の主導権を握る 情報の交換は判断力の交換 【事例23】態度が一変した米太平洋軍観測気球を揚げる 【事例24】ドイツ軍の観測気球に騙された英軍 宣伝と世論操作 第六章 情報活動の組織1…目のない動物は歩けないIT化は現場から 駐在武官、観戦武官、留学生の役割 【事例25】インド留学時の情報収集 【事例26】海外駐在の落とし穴 【事例27】韓国情報筋との接触 2…情報活動の保全情報保全の原則 対テロ戦は情報戦である 終章 世界の見方・考え方の原則性悪説と性善説の間 「地政学」で見る 「政権体質」で見る 「現状維持と打破」で見る あとがき 関連ページ 関連リンク
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民度・文明度・文化度・精神的成熟度・知的水準・情報リテラシーが低い国や集団や個人に多い特徴 「民度・文明度・文化度・精神的成熟度・知的水準・情報リテラシーが低い」リスト 長々と書き連ねられたこのリストは、まず問題点として、なぜ悪いのかわからない、定義が不明、一概には言えないような項目が多いことが挙げられる。 投票率が高い、武器の輸出入量が多い、核武装しているしたがる 兵隊やスポーツ選手に憧れる子供が多い TVタレントがバラエティに富んでいない、お笑い界の層が薄い、格闘技やスポーツ観戦が比較的盛ん 嫌いな政治家・芸能人が多い 物を集めたがる 早く結婚したがる プロセスより結果重視、名誉・記録・成績・勝敗・ステータス・外見に拘る それこそ、 独善的、己の独善に無自覚 といえるような判断基準ではないか。 他にも、彼自身がリスト内の多くの項目に該当している。 何かと非難・批判・否定・拒絶・嫌悪する・咎める 非合理的・非論理的、論理的思考が不得意、二重基準 特定の宗教や思想に陶酔、依怙贔屓する 知恵・知識が無い、思い込み・好き嫌いが激しい 彼はこのことに自覚的なのだろうか? たとえば、同リスト内には 性悪説を支持 とある。 彼は「性善説」という「特定の思想」に「陶酔」している。 「陶酔」と「支持」は違う? では、問題となる「陶酔」とはいったいなんなのだろうか。 きっと、「独善的で己の独善に無自覚」な民度の低い誰かが主観で決定するものなのだろう。 IQやEQが低い、学歴が低い このようなIQの理解が差別を助長してきた。 IQとは元来、知能発達の遅れた「子」を発見し、適切な教育を施すための「方法」として開発されたもので、経験的なものにすぎず、客観的根拠は乏しい(開発者自身はそのことを自覚していた)。 ましてや民度を計る基準としてはとても採用できるものではない。 差別や偏見が横行 このようなIQを民度の指標として採用するとは、まさに民度が低いと言わざるを得ない。 神・占い・呪い・迷信・奇跡を信じる あるいはこれにも該当する。IQを民度の指標とするのは「迷信」である。 自尊心が薄くプライドが高い デリカシーが無い、他人のデリカシーの無さへの許容心が無い 下ネタに不寛容、下ネタに不寛容な人に対して不寛容 空気を読まない、空気を読まない人に不寛容 このリストは謎が多い。 はて、このリストの「民度」はいかに? カテゴライズ(子供は子供らしく等)したがる このリストがカテゴライズそのものではないのか。 彼は自らの民度が低くなる危険を冒してでも民度の低さのなんたるかを我々に伝えたかったようだ。 ちなみに当wikiの編集者は 時間の使い方が下手 なので民度が低いです。ごめんなさい。 独自定義に基づく試験① 怒りは自然な感情だ・・・・・・・・2点 怒りは人為的な感情だ・・・・・・・1点 このテストでは点数が低いものほど評価が高い。 感情とはそもそも「自然」な本能ではないのだろうか? この問いは解釈する側の自由と責任、感情自己責任論を読まないと理解できない仕組みになっている。 読んだ上で判断するなら、言葉選びが不適当であると言わざるを得ない。 独自定義に基づく試験② この世に奇跡や偶然や絶対はある・・・・3点 この世は全て必然で相対だ・・・・・・・0点 同じく、このテストでは点数が低いものほど評価が高い。 一方、「民度・文明度・文化度・精神的成熟度・知的水準・情報リテラシーが低い」リストにはこうある。 唯物論・運命論・決定論を支持 一見矛盾しているようだが、彼の独自定義によると「全ては必然」と「決定論」は異なるらしい。 (というより、唯物論が同列に扱われているのも謎だ) 「全ては必然、は決定論で運命論で結果論に過ぎない」 全ては必然、は「過去に学べ」という意味である。「結果論だ」は学習しないための逃げ口上 (「哲学因果応報貧困人権物理学生物学、格言集」より) 前提となる独自定義は項目ごとに提示してもらいたいものだ。
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- 惜しい。 「幸福論」新宮秀夫 ...人間を含む動物の、種の保存の ための手段を考えてみると大きく3つの事柄が重要なことが判る。それらは、 1. 生むこと、 2. 食べること、 3. 危険を避けること、 である。... 戻る 「幸福論」新宮秀夫 http //web.kyoto-inet.or.jp/org/enekan/shingu/happy.html#0 ...生活の利便性の向上や豊かさ が暗黙の了解であった時代の感覚を、我々は一刻も早く考え直し、新しい人類の目標 すなわち、我々がこれから進む方針を確立しなければならない。 ...人間を含む動物の、種の保存の ための手段を考えてみると大きく3つの事柄が重要なことが判る。それらは、 1. 生むこと、 2. 食べること、 3. 危険を避けること、 である。... 惜しい。 4.排泄すること 5.休息すること 6.死んで次世代に譲ること この辺りの事に関する美学を確立する事が大事だと思ふのです。 念の為:価値在る文章と思っての御紹介で在ります。誤解無きやう。 単なる生活の利便性の向上や豊かさ が暗黙の了解であった時代の感覚を、我々は一刻も早く考え直し、新しい人類の目標 すなわち、我々がこれから進む方針を確立しなければならない。人間の社会活動の規 模が地球の許容量に比較して小さかった今までの時代には、我々の進むべき道につい て考える必然性も少なかった。けれども、50億を超える人間が地球上で幸せに暮ら そうという事を考えねばならない今、我々は最も難しい問題である「幸福論」を、改 めて真剣に論じなければならない時代にさし掛かっているわけである。それは、とり も直さずこれからの開発・発展の指針を見出すことでもある。 1.2 進化論に基づく人間の本性 人間そのものを知らずして人間の目指すものを知ることは出来ない、と考えた先哲 の思考法には感心させられる。性善説、性悪説も、結局どちらと決定は不可能かも知 れないが、そのような概念に照らして人間の行動を論ずると話が判りやすいことは確 かであり、素晴しい智恵だと云える。さて、孟子、荀子は云うにおよばず、ルソー( 1712-1778)もスミス(1723-1790)も、進化論の提唱者ダーウイン(1809-1882)よ りかなり前の時代の人々である。したがって、人間そのものを知る、と云っても、結 局人間は、始めから人間であるとの仮定(ルソーは仮定と云っている)に立って人間 そのものを考えざるを得なかった。アリストテレス(B.C.384-322)も、前歯と臼歯 の機能の差を例に挙げて自然淘汰による進化に言及しながら、目的論つまり自然現象 すべてには目的があると(自然界の秩序のあまりの素晴しさの故に?)結論して、進 化については深く考えていない。そこで、これらの人々が、仮に進化論を知っていた らどう考えたであろうか、という発想で人間そのものを考えて見る。 自然界を見ると植物、動物を問わず、いずれも環境に合わせて驚くべき適合性を持 って生きている。適合性ということは、種の存続という目的に最も都合良い形、行動 パターン等をとっているということである。そこで、人間を含む動物の、種の保存の ための手段を考えてみると大きく3つの事柄が重要なことが判る。それらは、 1. 生むこと、 2. 食べること、 3. 危険を避けること、 である。これらは生殖、生存、防衛、の“本能”と云えよう。自然の作用は、生物に これらの3つの本能を上手く発揮するために種々の都合の良い進化を、形態や機能と して与えているけれども、何が何でもこの3つの事柄を動物がやり遂げるようにする ための最良の方法として、これらのいずれにも、“快”、というものを与えている。 恋することが快であり、食べることが快であり、自分や仲間を守ることが快であるか らこそ我々は皆、命をかけてこれらのことをやり遂げることになる。 コメント 名前 コメント
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概要 第二次世界大戦以降に発足された術者の行政機関。総統は春咲美麗 主に術者や亜人に向けての法規制を行っている。いわば術者側の立法機関である。 対を成す派閥である十二門徒とは組織的には険悪。度々衝突を起こす場合もある。 組織的には友好的かつ余程のことがない限りは見捨てたりはしない。組織的にも所属しているものを家族も同然として、横のつながりがかなり強い。 また政治的・生活的に弱い立場のものには献身的なサポートを行う慈善事業も積極的に行っている。 十三階段の構成員になるには年二回行われる認定試験に合格をしなければならない。 先述の通り十二門徒とは険悪の中で、構成員の中では十二門徒と目が合ったら喧嘩が起きるという事も度々起きる。そして幹部クラスである【階位】の中でも深い怨恨を残しているところもある。 また思想も根本的に異なっており、十二門徒が性悪説思想に近く、十三階段が性善説思想に近いものを抱いている。 そのため一般的には十三階段をソラティオ派(ソラティオ思想)、十二門徒をオンブラ派(オンブラ思想)と呼称される。この名称を呼び捨てで言うと蔑称になる。 だが誤解しないでほしいのが、十三階段の皆が皆十二門徒を嫌っているわけではない。 中には十二門徒と友好的な関係を保っていたりする(戦刃一家、竜道家、雛野家、氷室家) そもそも組織内でのいざこざに関わると面倒になるのもあり、一般的には不干渉を貫いている。 本拠点は渋谷区。そこにあるビルディング街は魔獣などの発生率や、悪性が浄化される。そのため渋谷区に住居を構えたがる人が多い。そのため渋谷区の地価は高い。 十二門徒の皇帝とは切っても切り離せない因縁がある。 序列としては 総統 ↓ 主席階位 ↓ 階位候補生(ナンバーズ) ↓ (番外階位) ↓ 十三階段直轄クラン (準幹部・構成員) 主席階位はここ数年では大きな変化はないが、階位候補生であるナンバーズの数の入れ替えはやや激しい。 大小問わず失態には非常に寛容でそれで解雇をされることはまず無い。損得勘定ではなく、適正によって物事を判別している。 + しかし... 十三階段の派閥内にはその思想に染まってしまった者も一定数存在している。 彼らは十二門徒と悪とし、徹底的に排除する傾向がある。それに加え、身内の仲を執着するため部外者を徹底的に攻撃する者もいる。 また直轄クランにも様々な問題を抱えていたりする。 十三階段の主席階位もこれらの対処に追われていたりもするが……… 直轄クラン 渋谷区自治クラン 極光の円卓 治安維持遊撃隊 暗夜の宴 援助中組織 外界対策機構『ヴィクトリア』 魔獣対策独立行政法人アルティネイター 私立グリニッジ学院 陰陽師連盟 拠点 本部 渋谷区 日本支部 神戸・福岡 人員一覧 + 主席階位 第一段階位春咲家 第二段階位竜道家 第三段階位佐城家 第四段階位闇城家 第五段階位氷室家 第六段階位ジェイシス家 第七段階位雛野家 第八段階位貴宮家 第九段階位戦刃家 第十段階位焔矢家 第十一段階位西之園 第十二段階位キリエライト家 第十三段階位佐野城家 番外階位滝澤家 + 階位候補生(ナンバーズ) 弥勒夏葵(序列一位) 神代レナ(序列二位) 大秦寺こころ(序列三位) 山伏一織(序列四位) 尾上雪花(序列五位) 杜崎晃(序列六位) 轟原京依(序列七位) 仙谷翡翠(序列八位) 鈴宮勝人(序列九位) 星嶺サーシャ(序列十位) 八雲渚(序列十一位) 御剣刀馬(序列十二位) 月輪美琴(序列十三位) 神志名依茉(序列十四位) 稲荷崎嘉久治(序列十五位) 井嶋椿(序列二十位) クレハ・クラークルイス(序列二十九位) + 十三階段直轄クラン(準幹部・構成員) 準幹部 五十嵐慧悟 皆杜静葉 姫宮竜樹 清家奈々華 刀儀詩月 西条暦 イリアス・ヴィットーリア ヨルハ・バーヴァン 凍空・エルズワース・カレン 宇多良八柳 未鷺一芽 未鷺二実 弐葉美紗 式島カノア 宇佐美恋歌 アレイシドゥ ジャック・ドゥ・ブラン 今鳳龍 金城湊 セレーナ・アムールトーデュ
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目次 1.一念三千論について 2.人間はすべて十階建てのビルの住人 3.関係の論理と実践の論理 4.摩訶止観とは 5.一念三千は関係の論理、実践の論理は勉学、努力 6.地上への転生は進化の早道 7.光の天使の活動エネルギーは霊太陽 8.地獄霊の活動エネルギーは地上界から出る悪想念 9.フワン・シン・フワイ・シンフォーとは私のこと (一九八四年二月二日の霊示) 1.一念三千論について 富山 天台智顗さまですか。 天台 ――そうです。 富山 今日はこんな場所へお呼びしましてまことに申し訳ないんですが、かつてあなたがご在世中にお考えになられた「一念三千論」ですね、そのことについて、少しお教え願いたいことがあってお出で願ったのですけれども、まあ当然昔と今とではお考えも進展しておられると思うのですが、基本的にはあなたが書かれたものとそう変っておらないのでしょうか。まず、その点からお伺いしたいと思うのですが、たとえば、その「一念三千論」なんかに関しましては……。 天台 まず言えることは、「一念三千」という言葉は、この言葉自体は、私が発明した特別な考えではないということです。念い、の通りに人間はなる。念っているところのものがその人である。あなたは、あなたが思っている通りの人である。それ以上でも、それ以下でもない。これが普遍の真理であって、私ひとりの考えた哲学でも、思想でもないのです。念いが、そのひとそのものであります。そして念いの方向は自由を与えるのであります。「如来を念えば如来となり」「地獄を念えば地獄となり」ただその自由が、本来はすべて自由なのであるが、人間は永い間の転生輪廻をとおすことによって、心に段階というものができてきており、それぞれの段階に応じ、その範囲でしか念えないようになってきている。しかし、本来人間のこころ、思い、念うという思念は自由である。即ち、あなたはそこに座しているが、そこに座しているあなたは、如来界を念えば如来界の人間となり、地獄界を思えば地獄界の人間となれるのであります。それがあなたの本質であります。普通の人間はその本質を忘れ、自らの思想傾向、念いの傾向に執われ、その自由を自ら狭めているのであります。「一念三千」ということは、そのような普遍の真理、心の法則を説いたものであります。それは私独自の、私の思想でも、私個人の考えでもないのであります。 富山 その点についてですけれども、例えば、心の、念いの状態によって、世界そのものが変ってくるということでありますか。 天台 その通り――。 富山 地上に出ているわれわれとしては、界は変らないように見えるのですが。 天台 ――界とは何か! 富山 この物質世界、ただその、そちらの実在世界に居る状態においては、実際にその世界が変るのでしょうか。 天台 あなたは大変な思い違いをしている。この現界と申すか、現実世界があって、これ以外の世界。別の世界に実在世界があるのではない。今在るそこ、現在只今、この場所において、物質世界、三次元もあれば、四次元もあれば、五次元もあれば、六次元もあれば、菩薩界、如来界も、現にいまここに在るのである。別な世界があるのではない。それに気付くか、気付かないか、至るか、至らないかは、あなたがたの心のありようによって決まる。この物質界というものを離れて実質の世界、我々の世界があるのではない。同時存在できるというのがわれわれの世界なのである。あなた方の世界は即ちわれらの世界なのである。われらの世界の中にあなた方の世界があるのである。それを間違ってはいけない。 富山 その世界というものが、各個人の念の性質によって決定するものでありましょうか。 2.人間はすべて十階建てのビルの住人 天台 そうではない。例えば一つの建物がある。しかし、一階にだけ住んでいる人で一階だけしかないと思うひとは、一階建ての住人なのである。十階建ての建物であるのだが、それを気付かぬ人もいる。その人の世界は一階だけである。しかしながら二階があるということも知っている人もいる。その人は階段によって、或はエレベーターによって二階に上ることができる。この人の世界は一階と二階である。しかしながら、六階まで上ることを知っているものは、五、六階まで上ることを知っている。なおまた七階まで上ることを知っている人は七階まで上ることができる。しかし、七階が最高だと思っておれば、もうそれ以上は上れない。或は十階まであることを知っている人が居る。この人は一階から十階まですべてを知っている人である。別の場所にあるのではないのだ。同じ一つの建物、同じ場所を占めている一つの建物であるが、十階まであることを知っている人と、一階しか知らない人の違いがあるのである。即ちあなた、あなたという人間を造っている、思念、心、神のエネルギーは無限のものであるにもかかわらず、それを有限であり、限定されたものであるというあなたの心の働きそのものが、あなたの人間性を束縛している。一階、或は二階、三階、あなたはどこまでの建物を想念として持っているか、私の言うことがお分りになるでしょうか。 富山 それはしかし、知識として知っていることと、実際見ていることとは違うと思うのですが。 天台 違います。 富山 いま一つ疑問なのは、いま一階、まあ何階でもいいのですが、他の階に行こうとすれば行く階の心というか、想念に合わさねばいけないのでしょうか。 天台 そうである――。さきほど、たとえば、一階に住んでいる人でも、ニ階があることを知っていると、私は言ったはずだ。これは知っているとは如何なる意味か、これを考えて頂きたい。たとえば一階に住んでいる人は、自分が生れ育った環境の中で、建物は一階建てである、平屋建てのみが建物である、高層住宅というものを全く知らない人であるならば、現に二階があってもその人は、二階があると思わない。同じように知識というか、経験というか、或は精神状態というか、言葉は定かではないけれども、二階建ての建物しか知らない人は、それより上を思考することもできない。 いまあなた方は、如来界とか菩薩界という階に関し、思念することができる。思念することができるということは、既にあなた方にもそれだけの能力と、それなりの心の状態が用意されているということであります。ただここで大切なことは、すべての人間は、本来十階建ての建物として造られているということである。秀れた人、仏に参じた者は、或は八階、或は九階まで部屋を使うことが許されている。知ることを知り、使うことを知る。つまりそういうものがあるということを知り、かつそれを使用するだけの力と、行動とに、恵まれた場合に、八階、九階まで部屋を使うことができるのである。しかし、知らない人は、使いようがない。次に、知ってさらにどう使うかということを知らない人は、やはり使えないのである。知ってかつ行うということ、それが大事である。空想の世界で菩薩の世界があるということを思うということは、できる人もあれば、できない人もある。できない人は、菩薩に至ることはできない。しかし、菩薩という世界を思うことができる人の中で、菩薩として行動することができる人が、この菩薩の世界に住むことができる人間なのである。 富山 そこでひとつお伺いしたいことは、たとえば、あなたがですね、こういうふうに三次元と接する世界にお出ているわけですが、そういう場合に、本来いらっしゃる領域とは違い、波長も荒いし、そういう異次元の雰囲気の中へ来るためには、自分自身の心をやはり、そのように合わせないといけないのでしょうか。 天台 そうではないのであります。ここが三次元であり、五次元であり、七次元、八次元であるということが、あなたには分らないのか。あなたはまだ、空間的なものの観方をしているのである。 富山 ――たとえば、すべて波動の世界であるならば、現実にわたしたちとコンタクトするということは、私たちの波動の状態に合わせなければできにくいのではないでしょうか。 天台 今ここは、われらが世界、三次元にして三次元に非ず、汝、いま菩薩界に在り、われらが住む世界は、いま菩薩界、この世界、三次元でもあり菩薩界でもある、ということが分らないのか。われらは菩薩界に来たのではなく、現にこの世界が菩薩界である。今、菩薩の心、菩薩の境地が、この世界、この周りに現じているということである。われらが座しているのは、これは三次元の世界にあらず、今、ここが菩薩界である。――これが「一念三千」お判りか――。 富山 その菩薩界領域であるということは、その菩薩界領域が活性化しているということですか、空間的に言うと。 天台 活性化とはいかなる意味か――。 富山 つまり、菩薩界の波動が支配的だということ、波動というのは一つの比喩に過ぎないですが。 天台 あなたがもし私の言うことを理解できるならば、あなたの住む世界はいま、只今、私の世界と同じだということである。 富山 たとえば、八階から一階の方向へは通信ができるが、一階から八階へと、逆方向への通信はできないようになっているのでしょうか。 天台 できないのではなくて、上があると思っていないからできないのである。私は、さきほども述べたように、すべての人間は十階建てなのである。人間というものは、往々にして、あなたもそうであるが、こういうふうにものごとを考える偉大な指導者、光の指導者は、たとえば十階建ての建物を持っている、そしてそうでない人、眼の開けていない人は一階建てに住んでいる、或は三階建てに住んでいる人、こういうふうな見方もある。けれども、私の考えはそうではない。すべての人間が十階建ての建物に住んでいるのである。その十階すべてを使いこなせる人もあれば、そうでない人もいるということである。これはその人の知識経験の量、過去の行為の積み重ね、このようなものによって決まる。しかしながら、すべての人が十階建ての建物、十階の上に、たとえば屋上には、もう神の世界が開けているのである。 これが、「一念三千」の根本の、立論の基礎である。もし人によって一階建て、三階建て、十階建てがあるとするならば、念によって、三千世界におもむくことは、できない。ある人にとっては一千世界であり、ある人にとっては二千世界であるかも知れない、そうではないので、すべての人間が神の子としてすぺての自由を与えられている。念いの自由を与えられている。すべての人間が十階の建物を持っているということである。 即ち、あなたはいま、上から下へ降りることができるが、下から上に昇ることはできないと言っていたが、下にしか住んでいない人は、上に住んでいる人の存在を、気がついていない。まず念いがなければ行いもないのである。彼らも修行をし、悟りを開くことによって、上の世界があることに気がつくことができるのである。そうしたならば、二階、三階に上っていくことができるのである。 すべての人間の本質には、神としての、神と同一のものがあるということ、すべての人が十階建ての建物であるということである。 われらはいま、菩薩界に在り、菩薩界にあるというのは、通常の人間と、その精神というものを、建物という比喩で表わすならば、われらは八階建ての建物に住み、彼らは一階建て、二階建ての建物に住むのではない。すべて十階建ての建物に住んでいるのであるが、われらは八階まで使うことを、いま許されているということである。 3.関係の論理と実践の論理 富山 では、つまり一階しか使えないと思い込んでいるのは、自分自身の思い違いに過ぎないということですね。 天台 ――そうである。たとえばいまあなたにしてもそうだ。あなたのいまの心、私にはあなたの心がみえる。あなたの心は、決して七階、八階のこころを持っていない。そういう世界がある、そういう心である。本質はそうであるというにもかかわらず、あなたの心は、日常それを忘れている。一階、或は地下一階ばかりをあなたは思っているではないか。自分を地下一階の住人であると思う人には、八階、十階に住むことはできない。これに気がつくことが、即ち自分は神の子である、と気がつくことである。地獄に棲んでいるといわれる方々、彼らは地下の世界、地下一階、地下二階、地下三階に棲んでいる。彼らはその世界がすべてだと思っている。本来自らの建物が十階建てであるということを忘れてしまっている。「悟り」ということは、エレベーターに乗るということである。エレベーターに乗れば、高いところへ上っていけるのである。そのエレベーターに気がつくか気がつかないか、乗り方を知っているか、知っていないか、行き先を指示することができるかできないか、それだけである。未開人は、或は文化の遅れた人ならば、そこにエレベーターがあっても、これに乗ったら上に行けるということが分らないのである。 善川 ――そこで、エレベーターの乗り方についてですけれども、一つおたずねしたいのですが、現在、ご承知のように日本には゛比叡山゛というところがあります。ここは天台宗の総本山でありまして、ここには何千何百人という僧侶が居て、そのあなたが仰しゃるエレベーターの乗り方を修行していると思うわけですが、このエレベーターの中への乗り方、方法といいますか、その修行のあり方というものは、ああいう荒行、苦行の方法で乗り方を会得するものでしょうか。 天台 乗り方を如何にして学ぶかということは、人によって、これまた自由が許されております。今のあなたの質問の中には、現在の天台宗、或は比叡山をとりまく、新興宗団に対する批判の念いがあると思うのですが、確かに、あなた方のように、日常生活をしながら、エレベーターの乗り方を知る人も居れば、あのような特殊な世界に入らなければ、エレベーターの乗り方に気付かない人心居るのです。同じく比叡山に居ながらエレベーターの乗り方に気がついて、三階までのエレベーターに乗る乗り方しか知らない人も居れば、五階までの人も居るのです。いろんな人が居るのです。しかし、あれもまた一つの入口であります。否定することはできません。 善川 私が案ずるところでは、究極は、神のみこころを実現せんがために、この地上に生れてきて修行し、そしていささかでも世のために、神の道の証しをするという役目をもっているものであると思うのでありますが、いわゆる自己の肉体を責め、その間で心の修行をし、そのエレベーターの乗り方を会得するのが本来の相(すがた)か、或は衆生の中に入って、衆生と苦楽を共にしながら、大衆と共に学んでいくという生き方が、真のエレベーターの乗り方であるのか。現在における旧仏教と新興宗教の違いでもあろうかと思うのですが、この辺のところのご意見は、どのようなものであるかお伺いしたいと思いますが――。 天台 つまりどういうことでしょうか。あなたのお聴きになりたいというところは、どういうことでしょう―――。 善川 いうなれば、歴史の古い本山において、自己修行ですね、自己を磨くということを専一にする人生と、もう一方は巷にあって、社会人として、大衆の中で生活を共にしつつ、自己を磨き、鍛え高めていこうとし、そうしてそういう人達の病苫、家庭苦、経済生活苦と相接触して、その中で新しい方向を見出して指導していこうとする方向をとっている人との違いというものは、どうなのでしょうか。これ同一なのでしょうか――。 天台 あなたの質問は、質問であり、また答えであります。質問の形をとっているが、即ちもう答えである。あなたは自分でもう答えました。 それが答えであります。それはその人の価値観にもよるかも知れない。私に、そうした方がいいと言ってほしければ、私は敢えて申しましょう。あなた方の道は大衆と共に歩む道であります。その答えがほしければ、私はそう申しましょう。ただ、仏教修行を専門とし、やっている人に対する感謝の念というものは持たなければいけないのです。彼らが居るために、われらが゛法燈゛は語り伝えられているのです。それがなければ、彼らの存在がなければ、あなた方が大衆と一緒に住んでいながら、やはり仏法の世界に帰依する、接するという機会が少なくなってくるのです。彼らも亦(また)是(よ)し、吾らも又是し、そういう心をもってほしい、これしかないというものではありません。 善川 在家修行もよし、また寺院における修行もよし、ということですね。 天台 そうです。 善川 世上では、超人的な修行をして、生き仏と崇められるような修行をして、仏の世界を会得しようとしている人、これを今様にいうならば、スーパー・マン的な行為をしておられる方が居られますが、こういう方々の行き方というものには、それはそれなりの意義があるのでしょうか? 天台 あなたが、いま言われたスーパー・マンという言葉は一体どのような人達を指すのか、それはむつかしいことだと思います。どのような方を指しておられるのか――。 善川 例えば、断食行、或は千日回峰行と称し、自己の肉体を極限まで責め、長日月間苦行を積み、精神の修行に資そうとしている人達のことです。 天台 かれも、亦是し、であります。そういう人も居るのです。それでよいではないですか。彼らの姿を通して修行というものを感じとるひとも居るのです。本来の修行はそうではないかも知れない。肉体を苦しめることではないかも知れない。しかしながら、肉体を超えたところに精神的な世界があるということ、そのことのために彼らは修行しているのです。その姿を見て、また心が洗われる人も居るのです。それはそれでよいではないですか。彼らには彼らの悟りがあるのです。あなた方の悟りとは違うかも知れません。しかし、それもまた″是(よし)″であります。 4.摩訶止観とは 富山 お伺いします。摩詞止観の中に、度に対する対策の仕方ということが書かれてありますが、魔とは一体何でしょうか――。 天台 迷いであります。魔が現われるとき、あなたも既にご経験されているはずですが、魔が現われるときは、即ち、あなた自身が迷っているときであります。そうではありませんか。あなたが迷っていないとき、あなたが神の子として輝いており、自信に充ち、行動力に溢れ、迷いなく、突き進むときに、魔は現われないのです。 魔が現われるときは、即ち、迷いのときであります。それはあなたが迷っているときであり、彼らもまた迷っているのです。迷いが迷いを呼ぶのであります。魔が悪いのではないのです。それは迷いなのです。迷いを去れば、魔も去るのです。彼らが悪いのでもないのです。迷いなのです。゛魔゛とは迷いなのです。 富山 つまり迷いの性質が共通するわけですね。 天台 ――迷いであります。魔が現われるとき、あなたに迷いがないかをお考え頂きたいのです。必ず、迷っているはずです。 富山 悩み、苦しむ心ですね。 天台 迷いであります。本来神の子であり、実相世界に住むわれら人間であるに拘らず、十階建ての建物に住むわれらであるに拘らず、われ一階に住むなり、われ地下一階に住むなりと、念う心、上層階を忘れる心、本来の十階から地下まで降りることが、自由自在にできるわれらであるにもかかわらず、それができないと思っている心、これが迷いを生むのです。そうではありませんか。あなたは、本来十階建ての建物であります。あなたが十階にまで、エレベーターで上るならば、そこの窓からは素晴しい世界が見えるのです。眺望がきくのです。遠い遥かな世界が、近くの小さな家や、橋や、川や、人びとや、歩いている人達、そのようなものが一望のもとに見下ろせるのです。本来あなたの心は、ここまでの高みに上がれるのです。十階から眺めてごらんなさい。世界は平和な姿に見えます。ひじょうに小さなパノラマであります。人びとが平和に住んでおります。犬が歩いております。人が歩いております。川があります。橋があります。海があります。こういう心が晴れやかに澄み渡った仏の心であります。しかしながら常に一階に住しているあなたは、一階の窓を通してしか見ていないのであります。一階の窓からは一体何が見えるでありましょうか。不愉快な人びとの言動、或は騒音、或は車の動き、或は隣の家の壁、工場の煙突、そのようなものしか、一階からは見えないはずです。地下からはどうでしょう、何も見えません。そうですね。ですからあなたが迷っているとき、いま自分は何階に居るのかなということを考えてほしいのです。迷いのときは、あなたは一階か、或は地下一階から外を見ようとしているのです。十階から外を眺めてごらんなさい。すべては大調和の美しい世界であります。 富山 たとえば、宇宙飛行士が、人工衛星の中から地球を眺めたときに感じたような……。 天台 ――そうです。そうです。 富山 地球がこよなく美しく感じられたというような……。 天台 ――そうです。如来のこころであります。宇宙から、われらが姿を見ることかできる心が如来の心であります。 あなたが魔に苦しんでいるとき、即ちあなたは一階か、地下一階に居るんです。その窓から外を見ようとしているんです。不愉快な景色がいっぱい見えるんです。しかし、一旦あなたが十階まで上って、そこの窓から見た場合、不愉快な景色には映らないはずです。偉大な人工美、偉大な神の創った世界が見えるはずです。 善川 今、かれが上層階に上るエレベーターの来り方に苦慮しているという状況なのですが。 天台 自分がエレベーターに乗れんのじゃないかと思って、自分の手足を縛っているのです。エレベーターはそこにあるんです。ボタンを押して中に入れば、それでいいんです。行先のボタンを押せばいいんです。けれども、もう暫くは八階、十階に昇ったことがないと思っていること、もう昇れないんじゃないだろうかという心があるんです。さきほども言いましたが、あなただけではないのです。すべての人間が、十階建ての建物となっているのです。十階建ての建物の人もあれば、三階建ての建物の人もあると思えば、それに拘われるのです。あなたの心はそうなのです。秀れた人は十階建ての建物なのだ、三階建ての人もいると、俺には魔がいっぱい来る。俺は一階建ての建物じゃないかと念えばそうなるのです。そうではないのです。あなたは一階建ての建物だから、二階、三階に上れないんじゃないのです。すべての人間が十階建ての建物なんです。それを気付いてほしいんです。 善川 この迷いから脱却するためには、彼は肉体的な行と甲しましょうか、鍛錬を要しましょうか……、寺院での修行憎のように。 天台 ――いりません、一念三千です。現在、只今できるのであります。己れの本質に気がついていないというか、忘れているのです。あなたが思っているのは、自分は一階建ての建物ではないかというような、そのようなことで悩んでいるのです。十階建てなのです。 富山 たとえば、現に地獄というところで苦しんでいる人達に対し、もしあなたが何か、ヒントといいますか、何か方向性を指し示すことがあるとすれば、どういうふうなことを仰しゃいますか。 天台 いま言った通りであります。われわれ、すべて地獄に堕ちているものも、天上界に住んでいるものも、やはり十階思ての建物に住むものであるということに、気付きなさい! ということです。 あなたは、たとえば地獄に堕ちている人達をわれらが救わないというような思いがあるかも知れないが、そうではないのであります。彼らは好んで地下一階、地下二階、地下三階に居るかも知れないけれども、彼ら自身既に救われた存在なのです。なぜならば、彼らも神の子だからです。彼らも神の子だということです。彼らもまた十階建ての建物に住んでいるのです。エレベーターはあるのです。通っているのです。ボタンを押して来ればよいのです。われわれが十階から降りて来て、彼らを引きずり上げるわけではないのであります。上る、上らないは彼らの自由であります。ボタンを押して上るか、上らないかは彼らの自由であります。彼らは、本来救われているのであります。 富山 つまり、誰もその上の階へ上るということを禁止しているわけじゃないのですね。自分自身で自分を束縛してしまっているというわけですね。 天台 そうです、救われているんです。本来救われているんです。われらは十階、八階に住むのを「是(よし)」としております。しかしかれらは、今地下一階、または地下三階に住むのをよしとしているのであります。われらが、彼らに説くということは、君たちは十階建ての建物に住んでいるんだよ、エレベーターは、ボタンを押して昇れば昇れるんだよ、と説いているんでありますが、それを信じるか信じないかは、彼らの自由であります。 富山 人間のその一念三千の例ですと、各個人の念が共通世界を造り出すことと思うんですが、逆にその世界そのものが、また逆に念というか、心を縛ってしまうということもあるんでしょうか? 天台 どういうことですか? 富山 たとえば、自分が造った世界、心のつくりあげた世界、自分達で造りあげた世界そのものの構造が、また逆に自分達の心を束縛するというか、限定してしまうというか――。 天台 そうではありません。すべては唯心の所現です。 5.一念三千は関係の論理、実践の論理は勉学、努力 善川 ちょっとお伺いしたいのですが、いまの比喩で申しあげますなら、あなた様はいま何階にお住居されておられますか。 天台 八階であります。 善川 では十階の存在をご承知の方ですね。 天台 存在は知っております。ただ私は、十階まで上ることは許されておりません。 善川 それは、どういう訳ですか。お説のように念えば行けるのではないでしょうか。 天台 行けます。念えば行ける、本来行けるのでありますが、私には八階が住み心地が゛是(よい)゛のであります。 善川 エレベーターのボタンは、あなた押せないのですか。 天台 乗れないのです。 善川 それはまた妙なことではないですか。いまのあなたのお説からすれば、押す意志がないのですか、あなたは――。 天台 たとえば、私にとって、十階に上るということについては、経験不足といいますか――。 善川 そこのところが、理論と、実際との間に食い違いがでてくるところかと思うのですが……。 天台 というのは、私もまだ十階違ての建物であるということは言われているのでありますが、十階に行ったことはないのです。 善川 一念三千で、十階を認識すれば、そしてそのエレベーターのボタンを押せば、一躍して十階へ上れるのではないのですか? 天台 行けるはずであります。 善川 何故、なぜ行けないのですか! 天台 行けるはずでありますが、行けないのであります……。 富山 こういっては失礼でありますが、たとえば自分よりも悟りの進んだ世界へ行った場合に、一種の気詰まりを感じるわけですか。どういう表現を用いたらよいかよく分りませんが……。 天台 たとえていうならば、展望台があるとしましょうか、百五十米の展望台があるとしましょうか。ここまで上って全地域を見晴らせば、これで「是(よし)」と、思う人があります。三百米まで上らなければ、是(よし)、としない人があるのです。頂点まで上らなければ、是、としない人も居ります。現在の私のこころは、三百米でもよろしいが、そこで世界を見晴らせば、それで「是」としているのであります。あなた(善川)の仰しゃることは、論理的であります。私自身もまだ上に行かねばなりません。しかし、一番上に居られるのは神が居られる。神にまで至るそのエレベーターの操縦方法は、またむつかしいのです。私はそれを勉強しているのです。行けることは分っているのです。しかし、やや、エレベーターの操縦もむつかしくなっているのであります。 富山 こういってはなんですが、お釈迦様などに比べた場合に、自分の悟りは、それまで至っていないという心があるから、今そこにいらっしゃるということですね。 天台 まあそういうことでもありますが、エレベーターにも乗り換えがあるのであります。たとえば、普通の人間であるならば、四階までなら押せばすぐ上って行ける。しかし四階からはまた、これはたとえば乗客用ではなく乗務員用の専門カーに乗り換えなければいけないのです。その乗り換えの操作をまた勉強しなければいけないのです。そこで操縦方法にパスすれば、また六階、七階に上って行けるのです。また更に高層用のエレベーターがあるのです。これまた乗り換えなければいけないのです。そして神の世界に至るエレベーターがもう一つあるのです。これも乗り換えなければいけないのです。 そういう意味においては、私は先程から、エレベー夕ーということを申しましたけれども、このエレベーターも単純なエレベーターではないということも言えるのです。ただ、エレベーターはあるのです。四階までなら普通の人なら行けるんです。あるということを信じ、その操作を、簡単な操作を知れば四階までは行けるのであります。また四階から乗り換えるのです。中層用エレベーターがあるのであります。そしてその上の高層用エレベーターがあるのです。 善川 そうすると、あなたもそうですが、あなたと一緒の処に居られる方がたも、次の階へ上る勉強をしておられるというわけですね。 天台 そうです。 善川 つまり実践問題について、そのテクニカル・マターーについての研究、修練というものについて……。 天台 そうです。 善川 そういうことは、具体的に言えば、更に上段階の教師といいますか、そういう方々のご指導を受けながら勉強するのでしょうか。 天台 ――そうです。われわれも、われわれの上にある世界の人びとの教えを聴きながら勉強しているのです。人間は本来十階建てで造られております。その十階まで極めたとき、即ち、本来、神から岐れて来たわれらでありますから、神である自分自身を如実に自覚する時が、十階に至るときであります。まだ神である自分自身にまで自覚が至らないときには、最上階まで上がれないのでありますが、本来は十階建ての建物であり、われらが建物として与えられているのです。それらの建物に住んで居るのです。本来そのような建物として造られたものであるから、われらは転生輪廻、或は地上界、天上界の生活を通して、この一階から二階、二階から三階、或は十階までもですね、与えられたものすべてを使いこなせるようになりたい。本来あるべき゛相(すたが)゛に還りたいという念いでわれわれは生活をしておるのであります。 私も地上生活を永くやっております。転生輪廻も何度もやりました。そして私は本来の自己に近づきつつあります。しかし、まだ八階に居ります。もう一つのエレベーターの乗り方を勉強しなければいけないのです。本来すべて使えるはずなんです。私も知っております。もう一つエレベーターがあるのです。これに来りたいのです。来ろうとして居るのです。訓練をしております。 富山 つまり、そのエレベーターのボタンというのは、自分の゛心゛であると思うのですが……。 天台 そのとおりであります。 6.地上への転生は進化の早道 富山 その、たとえば技術という言葉を使ってはどうかと思いますが、そのためには地上に出て訓練というか、心の持ち方を修行する必要があるのでしょうか。 天台 われらが世界でも訓練はできるのですが、その効果は大きいというわけであります。 善川 地上に出た場合には魂の進化の効果は大きいというわけですね。 天台 そうです。大きいのです。というのは、例えば、八階なら八階に居ますと、余りエレベーターに乗らないものですから、エレベーターの乗り方を忘れてくるのです。しかし、生れ変ってくるということは、この地上に生れるということで、エレベーターに乗って一旦一階まで降りるということなのです。一階まで降りて、一階に住みながら八階に還る方法というものを、一生懸命練習しているのです。そして地上で死んで一階から八階まで還ってくるのであります。そのときに、そうだエレベーターは、こういうふうにして乗り換えてくるんだったなあと、われわれはそのときに悟るのであります。そのときに、その練習を積むことによって、更に上へのエレベーターのことに気が付いてくるんであります。ずっと同じ世界に住んでいると、エレベーターを忘れてくるのです。そのエレベーターの存在を知らしめるために、われわれはまた地上に生れてくるのであります。ところが、上に還って来ないで、間違って下のエレベーターのボタンを押して、地下に降りて行く人も居るのです。これが地獄に行く人達なのです。地下には倉庫があります。倉庫も必要であります。美しいオフィス用のピルだけではないのです。その下には倉庫もあれば、いろんな物置もあるんです。物置を自分が住んで居たところだと問違えて、物流に入り込んで住んでいる人が居るんです。彼らは場所を間違えているんです。魔でもなんでもないんです。サタンでもなんでもないんです。彼らは住家を間違えておるんです。本来上の世界に還って来なければいけないのに、間違えて物置の中へ入り込んでしまって居るのです。場所を間違える、この間違い、これを迷いといってもよろしい。本来あるべきところに居ないということ、本来あるべき゛相(すがた)゛でないということ、場所と時とを取り間違っているということ、それそのものは悪いものではないのですが、とり間違えということによって起る現象が迷いであり、迷いの姿が魔なのであります。地獄霊たち、魔たちは、本来あるべきすがたを取り違えているんです。それが迷いであり、魔であるのです。悪でもなんでもないのであります。本来、神の子であるにもかかわらず、そのあるべき相(すがた)、というものを取り違えているのです。本来、見晴らしの良い世界に住んでいるべき人であるのに、間違って物置の中に入っているんです。地下の物置、真っ暗であります。地下一階、二階、三階に居るんです。彼らは真っ暗なところへ降りてしまったんです。エレベーターの上へ昇るボタンを、下へ降りるボタンと押し間違えて、下へ降りてしまったのです。着いたエレベーターのドアが開いて出たところが頁っ暗な世界だったのです。彼らには眼が見えないんです。手探りでいろんなものを探っているんです。手当り次第に、いろんなものに手を出してくるんです。あなたに時々まとわりついてくるのも、そうなんです。彼らは、暗い世界に居て視えないんです。よく見えないんです。よく見えないから触るものを一生懸命掴もうとしてくるのです。彼らが悪いわけではないのです。見えないんです。いったん出口から物置に入ってしまったら、元出たエレベーターがどこにあったか、一生懸命手探りで探しているのです。エレベーターを探して見つけて、ボタンを押せば帰って来れると思っているんですが、頁っ暗な世界を手探りで這い廻って探しているんです。可哀相な人たちです。 富山 ―それならば、光を点ければいいんじゃないかという気もするんですが……。 天台 物置は物置としての役割があるんです。地下の倉庫は倉庫としての役割はあるんです。 富山 つまり、一階が明るくなれば、その光が地下にもおよぶというわけですね。地上界へのそのボタンが見つけられるということですね……。 天台 まあそういうことも言えます。そういうふうに言ってもよろしいんです。というか、地下に住んでいる人たちは、せいぜい一階の世界までしか見えませんから、一階の存在しか認識できないのです。光が射してくるあたりが、一階であります。 7.光の天使の活動エネルギーは霊太陽 善川 お伺いいたしますが、光といい、あなた方の活動の原動力というものは、すべてエネルギーだと思いますが、あなた方の心的生活エネルギーは、何処から供給されているのでありましょうか。 天台 神、そのものがエネルギーであります。われらは神のエネルギーの岐れたものであります。われらのエネルギーは無限であります。 善川 無限ではありましょうけれども。 天台 不増、不滅であります。 善川 無限ではありましょうが、その時点、時点において、或は定期的に補給されているというのではないでしょうか。 天台 無いです。不増不滅であります。 善川 ではありましょうが、たとえば一転して対照的な状況下にある地獄界に堕ちている者たちのエネルギーは、一体何処から供給されて生きているのでしょうか? 天台 エネルギーという言葉にあなたはひじょうな多義性を与えております。あなたのエネルギーという意味は違うのであります。生命力という意味のエネルギーと、活動源という意味でのエネルギーと、いろんな意味があるのです。生命力という意味でのエネルギーを私は語っているのであります。このエネルギーは不増不滅であり、元からあるものであり、決して消えないのであります。なぜなら、神から与えられたものであるからです。あなたの言っているものはまた違うものだと思います。 善川 私の言っているのは活動のエネルギーです。 天台 それは、例えばこの地上生活をする上では、食物を摂取することが必要だという意味でのエネルギーであります。そういうことですね。 善川 そうです。 天台 天上界には、霊界の太陽というものがあって、われわれはその光を受けております。 善川 その「霊太陽」の光を多く受けるものと、少ないものとの享受差というものがあるのではないでしょうか。 天台 ――そうです。というのは、霊太陽、に接している時間、或は面積といってもよい、時間といってもよいが、長く接しているものと、そうでないものとがあるのです。たとえて言うならば、太陽は十階の高さにあるんです。十階に居る人は正面から太陽の光を受けます。しかし、九階、八階、七階と降りてくると、太陽の光は斜(ななめ)に射してくるのであります。一階になってくるとかなり傾いてくるのであります。地階になると全く届かないのであります。
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KINU チャレンジャー、にち10! キリコ コ ガ エアロト、私はポッドキャスト組だったけど、それなりに「当たるかな?」とドキドキして楽しめた。 当然、予想の数を上回る応募があることは覚悟の上だったとは思うけど、どんだけの数になったのかな?来週の報告が楽しみだ。 例のポストカードをプレゼントの末当にすればよかったのにね。 ウインナーは高価過ぎだよ! ところで、ゆみタン、ユリゲラー知らないの!?? ちょっとビックリ! 2009/8/25(KINU)